政治的正しさの先にあるもの

最近「ポリティカルコレクトネス」と言う言葉が社会に溢れている。

この「ポリティカルコレクトネス」と言う言葉の意味は「政治的正当性」を意味するが私は最近この言葉が悪用されているように感じる 

具体的に最近の傾向としてはアニメ・映画などの芸術作品に対するポリティカルコレクトネスのごり押し等が目立つだろうか。

ここで一つ重要なことを言うがそもそも「ポリティカルコレクトネス」は政治的正当性を意味するのであって普遍的な「正しさ」を象徴するものでは無い。

この事をまず前提として覚えていてほしい。

そもそも政治的な正しさと言うものは時代によって流転する、

政治とは結局のところ利害と金と欲望のごった煮であり普遍的な正しさをもたらすほど高潔なものでは無いのだ

それなのに「政治的正しさ」だけを求めてゲームや映画に無理やりマイノリティを取り入れるのは悪手極まりないことである・

そもそもゲームや映画を含めた芸術と言うものはまず根底に世界観があり表現方法こそ異なれどその世界観に沿って描いて行くものなのである

要は芸術にとって一番大事なのは世界観であり極論すればキャラも役者も設定も世界観を描き出すためのペンでしかないと言えるのだ。

例えば日本の平安時代をモデルにした漫画で何の脈絡もなく白人が出てきたらそれはとてつもなく異様に見えるだろう

同じように円卓の騎士の物語を忠実に映像化した映画で突然日系人が出てきたらとてつもなく異様に見えるだろう

つまりはそう言う事である (最も上記二つの例にしても しっかりと世界観の段階で突然白人や日系人が出てきても無理が無い設定にすれば問題はないのは自明である)

即ちこれまでの積み重ねによってで出来た世界観こそが作品にとって重要なのでありその作品の世界観を無視してマイノリティを入れる事は芸術としての価値を下げるだけでなく

マイノリティたちの今後をも暗い物にしてしまうのだ。

誤解されないように言っておくが私は人種差別を許せない物だと思っているしマイノリティと言われる人たちの「もっと理解してもらいたい」と言う思いも痛いほどわかる

だがだからこそ現状のマイノリティのごり押しは危険なのである。

権利を主張するのもわかる 支援を必要としているのもわかる

だからこそ自分たちが他人を脅かしていないか慎重に振り返ることが重要なのである

もしそれを忘れて「政治的正しさ」だけを求めた時には悲劇が待ち構えている事だろう。